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統帥権干犯問題

注:明治憲法の条文が記載されています。原文はカタカナ表記ですが、読みやすさを考慮してひらがな表記にします。

なお、一般的に軍部の暴走例としてよく取り上げられる問題だが、そもそもは国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべきである。

遠因 [編集]
明治憲法下では軍の統帥権が天皇にあったが、編成権(部隊編成、予算編成など)に関しては国務大臣が補弼するのか。それとも、憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については国務大臣が輔弼せず統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていたことにより、その大権に含まれるのかどうかが大きな論点となっていた。
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第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
から編成権も統帥権に含まれるとする意見と、

第55条 第1項 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
から、軍の編成権は内閣が持つとする意見がある。

第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし 
により、軍の編成・維持のための予算は議会が決定する物であるが、統帥部は、軍事に関する情報を内閣に通さず天皇に報告(帷幄上奏)できたため、国務大臣(内閣)が関わる必要がないと言う考えが大勢を占めた。

表面化 [編集]
1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会において、ロンドン海軍軍縮条約締結に対し、軍令部が要求していた、補助艦の対米比7割に満たないとして条約締結拒否を言ったにもかかわらず、この条約を結んだことを理由に[4]、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃、続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せた。

やがて、こうした反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになる。それでも政府は世論の支持と元老・内大臣の了承を背景に、帝国議会・枢密院を押し切って同年10月2日に批准を完了させる。当時の軍令部総長加藤寛治は統帥権干犯を批判し、天皇に辞表を提出した。同年11月14日、濱口雄幸総理は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷(翌年8月26日死亡)。濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職する。

結果 [編集]
この事件以降、日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利を行使され政府はそれを止める手段を失うことになる。

政友会がこの問題を持ち出したのはその年に行われた第17回衆議院議員総選挙で大敗したことに加えて、田中義一前総裁(元陸軍大臣・総理大臣)の総裁時代以来、在郷軍人会が政友会の有力支持団体化したことに伴う「政友会の親軍化」現象の一環とも言われている。

その後、総理となった犬養毅が軍縮をしようとしたところ、五・一五事件で決起将校に殺害され政党政治が終結を迎え、戦時中には軍の圧力により逼塞状態にあった鳩山一郎が、戦後に総理就任を目前でGHQからこの時の事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となるなど皮肉な歴史を辿る事となった。

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2009年06月09日 13:54に投稿されたエントリーのページです。

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